神の国をつくる

 「教会の将来の見込み」/15-p218  という見出し付近から、「神の国」の作り方(というかでき方)が書かれています。

重箱の隅をつつくようにして、史実の掘り起こしをするタイプの研究者からみれば、「こいつは一体何をやってるんだ?」「これが歴史の研究?」と思われそうな部分です。

「この必要であり、しかも危ういほど思弁的な探求に乗出すにあたって・・・・」/15-p218 と著者も言っている通り、経験主義者としての常套手段も思うように行使出来ない部分も多く、説明しにくいところでしょう。

私にとっても「歴史の研究」は、文明の発生、成長、挫折、解体と読み進めて行くと(2022年現在まだ読みきれていませんが)、非常に有益な情報が沢山得られる宝の山ですが、ここ神様の登場に到ると反旗を翻す人も多いだろうと思います。

「回心」とか「聖者」といった言葉も出てきます。
それぞれの言葉の定義なども(これまで読んだ限りでは)特に書かれていないようです。・・・・トインビーさんは、もともと厳密・厳格に言葉を定義して使用するタイプではなさそう(?) 
(ちなみに私も定義しないほうに賛成です!)

実際、この著作には多くの批評がありますが、これは歴史の研究ではなくて一人の人間の巡礼の旅路の記録すなわち一種の人間喜劇と言う評価もあります。

話をもとに戻します。
幾つかポイントとなりそうな部分をまとめて抜き出しますと、

[人間の問題点]---
「不和は人間生活に深く根をおろしている。というのは、人間はこの世の中で人間が出会わなければならないあらゆるもののうちで、最も扱いにくいものであるからである」/15-p220

「人間は社会的動物であると同時に、自由意思を賦与された動物である。
この二つの要素が結びついているということはつまり、人間だけを成員として成り立っている社会では、始終意志の衝突が起こり、人間が回心の奇跡を経験しないかぎり、この衝突は人類の自滅という極端な場合に立ち到るということを意味する」2-p490

・・・・ここでの「人間だけ」という言葉は、神様を含めないという意味を意識していると思います。
完訳版では、「回心の奇跡を経験」のところは、「改宗が必要である」と、かなり平面的に訳しています。

「人間の意識的自我は、驚くべき精神的進歩を達成する神の選ばれた器として役立つことができるが、また同時に、神の姿に似せて造られたという意識に陶酔して、自己を偶像化すれば、嘆かわしい堕落をする可能性がある。
傲慢の罪の支払う報酬であるこの自滅的な自己陶酔は、人格の本質をなす不安定な均衡状態において、常に魂の犯しがちな精神的過ちである」2-p491

「人間はまことに困難な道を歩まなければならない。
人間をホモサピエンス(英知をもった人間)とした偉大な創造行為は、そのことによって、人間がホモコンコルス(協調する人間)になることをはなはだしく困難にした。
しかも、ホモファベル(ものを造る人間)であるところの社会的動物は、自滅を免れようとすれば、どうしても協力する必要がある」2-p491(/15-p223)

[解決策・結論]---
「神の参加なくして人類の統一はあり得ない。
この天上の水先案内人を抜きにした場合、人間は単にかれの生得の社会性に反する不和におちいるばかりでなく、『唯一の真の神』を成員として含んでいない社会の中でかれに割り当てられた役割を果たす努力をするかぎり、かれが社会的動物であるということから必然的に生じる、したがってまた、かれがかれの社会性の道徳的要求に従って行動することに成功すればするほど一層はっきりした形で現れる、悲劇的な難問題に苦しめられる。
その難問題とは、人間が自己を実現する社会的活動は、時間的にも空間的にも、地上における個人の一生の範囲をはるかに越えるものであるということである」2-p493(/15-p228)

「人類の統一は、神の単一性の信念に基づく行動の付随的結果としてのみ、そしてこの単一の地上の社会を永遠の相のもとに、仮説によって複数ではなく単数でなければならない『神の連邦』の一つの州と見ることによってのみ、達成されるのである」/15-p225

その直前にはコメント的にこんな文章が・・・・
「われわれは他の文脈で、目標に到達する最も見込みのある方法はその目標そのものを狙わないで、その目標の向こうにあるもっと野心的な目標を狙うことであるという逆説的ではあるが意味深長な真理を指摘した」/15-p225
・・・・とあります。

これを「真理」とさえ書いているのは大げさに思えましたが、このような経験は日常的にもたまにはあることで、私自身も何度も感じてきたことでした。
これは、何度か他の部分でも書かれています。  /15-p288  /15-p15

さらに、/15-p249  にも!
「目標はそれ自体を狙わず、その向こうにあるより野心的な目標を狙うことによって、しばしば最もよく到達することができるという真理に照らして、われわれは、聖者は『神の国』の良き市民として行動することにひたすら努めることによって、自分の精神的活動分野のはるかに大きい枠の中で、この世の社会生活のために事態を救うことに付随的に成功するという逆説を説明することができる。」

「より野心的な目標」というのは、より根本的な解決法を目指すとか、あるいはより上流で食い止めるということでしょう。
最近、テレビニュースなどを見ていると、あまりにも多くの課題が出てきて、「そんなことがあるのか・・・・!」と、良きにつけ、悪しきに付け感心することがたびたびです。
対処するには法律や条例が幾つあっても足りないでしょう・・・・人の数だけ必要?

「人間は神と交わっていない時には、その本来の社会性と衝突する不和に陥るだけではない。
人間はまた社会的被造物であることに内在する悲劇的な難題によってさいなまれる。
そしてそれ故その難題は、人間が唯一の真の神が構成員として加わっていない社会で自分の役割を演じようとする限り、人間の社会性の道義的要請に近づくことに成功すればするほど、より尖鋭な形で現れる。
この難題とは、人間が自分自身を完成する社会的行動は、地上における個人の生活の限界を、時間的にも空間的にも、はるかに越えるということである。」/15-p229

これはトインビーさんの挑戦と応戦の課題として証明済みのことです。
「その社会は不可避的に動乱時代に陥る」 とも言っています。 /15-p228

近頃、温暖化防止のために、特に先進国が二酸化炭素排出○○パーセント削減とかやっています。もちろん非常に重要な緊急課題ですが、これだけでは対処療法過ぎるとも思います。それよりも、被造世界を愛する心を養うのが肝要ということでしょうか。
やはりイエス様が言われた「第一の戒め」(マタイによる福音書第22章37節)・・・・が第一!

「意志の調和があり得る唯一つの社会は、二人もしくは三人---もしくは二十億人、三十億人---が神の名に於いて神を中心に集まっている社会である。
神が造った人間ならびに唯一の真の神を包含する社会に於いて、神は無類の役割を演じる。
神は各人間構成員と神自身との関係の一方の当事者である。
しかし、このために神はまた各人間構成員と他のすべての人間構成員との関係の当事者でもある。
そして人間の魂に神自身の聖なる愛を吹き込むこの神の参加を通して、人間の意志は和解することができるのである」/15-p226

要するに「友達の友達は友達だ!」ということになりますね。

「唯一の道徳的に耐えることのできる行動領域は『神の国』である。
そして、地上に於けるこの『神の国』の市民となる機会が、高等宗教によって人間の魂に提供されている」2-p494

別の箇所ではこんな言い方もしています。
「プルタルコスはアレクサンドロスの言として、次のことばを伝えている・・・・『神はすべての人間の共通の父であるが、もっとも優れた人間に、特にわが子として目をかける。』
もしこの『ロギオン』(偉人の言ったと伝えられる言葉)が信頼すべきものであるとすれば、アレクサンドロスは、人間が兄弟であるためには、まず神が父であることが必須条件である、という真理を悟っていたことになる。
この真理は、人類家族の父としての神を度外視し、その代わりに、それだけで人類を統一する力をそなえた、全く人間的なきずなを作ろうとしても、それは到底不可能なことであるという逆の命題を含んでいる。
人類全体を抱擁することのできる唯一の社会は超人間的な『神の国』であって、人類を、しかも人類だけを抱擁する社会などというものは、全く実現性のない妄想である。」2-p228/11-p228(どちらもp228!)

このアレクサンドロスは、有名なマケドニアのアレキサンダー大王のことです。ローマ帝国の建国者アウグストゥスも、この方のことは尊敬していたようですが、若くして亡くなっているのに、神様のことは身近に感じていたのでしょうか。イエス様が生まれる300年以上前のことです。

人間のさまざまな行動に意味や価値を与えるのも神様の仕事です。

「個々の人間の見地だけから見られる歴史は、『愚人の語る無意味な物語』である。しかし、この明らかに意味のない『響きと怒り』は、人間が歴史のなかに超越的に無限であり、深い愛情を持ち、聖なる仕事への協力者としてこの世で行動するようにとの神の挑戦的な呼びかけに人間が応える限り、人間を神自身の行動の範囲と存在形態に導く力と意味を持つ唯一の真の神の働きを瞥見する時に、精神的意義を獲得するのである」/15-p229

「被造物の空しい努力によってその意味を求める限り、意味を見出すことのできないような情景も、造物主の内在的目的のうちにその意味を求めるや否や、ただちに有意味なものとなる。
「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」というのが、最も奥に宿る者からの救いのお告げである。/20-p237

「神は、人間が意識と生命だけでなく、存在の意義を得てくる源であり、人間の存在の理由である神の目的は、被造物をふたたび造物主との交わりに入らしめることである。」/20-p238

日本人などは、長い間キツネやタヌキなども神様にしてきたので、神様の程度もピンからキリまであります。
一神教とか高等宗教といったものがどれくらい価値のあるものか、考える人も少ないのではないでしょうか。

「神は無類の役割を演じる」と涼しい顔で(?)書かれていますが、不断から神様に親近感を持っていないと理解が難しいかも知れません!
トインビーさんは「唯一の真の神」を強調しています。
「はじめに」にも書きましたが、トインビーさんも神様の存在について、「この精神的な存在があるということの証明は、私にはできません・・・・(中略)・・・・私は、ただ人間性の精神的な側面で私が直接経験したことから、その存在を感じ取るのです。たいていの時代、たいていの場所で、たいていの人が、同じ感得をえてきました」とのこと。

存在の証明はできなくても、トインビーさんはこの「唯一の真の神」を個人的には良くご存知のようです。
「歴史の研究」を執筆するに当たっても、この唯一の真の神(以後「T神」と略)から相当なプッシュと励ましを得られたことでしょう。

T神のキキメは、上に書かれているとおり、小グループでも人類全てを含むグループでも、個々の人間とは1:1で対応することができるという能力です。
さらに、私が誰かと関りを持つ場合に、T神はどちらの個性をもよく知っているのです。
私もT神のこの能力について何ら異存はありません。
昔から神様と言えば、これは当たり前の能力です。
このT神は私の神様でもあるようです(・・・・やはり証明はできません)
いとも簡単に認めてしまいますが、トインビーさんと争って神様の奪い合いをする必要もありません。
こんなもんが本当に存在するのでしょうか?・・・・証明はできないそうですが、その恩恵は受けています!

「人間の創造は現世における聖者の交わりに於いて完成されるであろう」/15-p326

ここで聖者とは?・・・・
「神との交わりに入ることによって現世の生活で時間と空間の限界を突き破る人は、その交わりが習慣的になるならば野蛮人から聖者に変わるのである。
・・・・(中略)・・・・
そのような聖者の徳は社会の維持・・・・最もつまらない、単純な、低級な社会の維持のためにさえ欠くことのできないものである。というのは、地上の社会生活を可能にするために必要とされる最小限の無私、決意、勇気、識見でさえ、社会的動物の生まれながらの利他心の範囲をはるかに超えるからである」/15-p233  

・・・・聖者については詳しい記述はなさそうですが、すぐに思い浮かぶのは、パウロの回心です。
新約聖書にある有名な話ですので、御存じの方も多いと思います。
サウロ(パウロの以前の名前)はキリスト教徒を激しく迫害していましたが、イエス様に出会って以後、自分自身がキリスト教の伝道者となりました。(使途行伝8章付近~)

「この世はレビアタンのための王国でもなく、また開墾できない精神の荒野でもなく、神の国の一つの州であるというのが真実である。
それは高慢の罪に誘われて恩知らずに、そして非合法に独立を宣言し、そのことによって混乱と困苦という自業自得の罰を自らの上に招いた反逆的な州である。
しかし、この反逆行為は神の主権を除くことも神の愛を遠ざけることもできない。
神はその支配権を再び確立したいと考えていられる。しかしそれは神がこのつまらない州の産物や収入を必要とするからではなく、被造物に対する神の同情心から神は人間が自ら招いた罪と苦難から救いたいと願っているからである。」15-p310

このへんは、聖書に出てくる放蕩息子の話を思い出します。
結局一人の人間ではなく、人類全体が放蕩息子ですが、本人たちはそう思っていないかも。
そして、神様は創造主・・・・親なので、息子のことを心配しています。


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参考文献、引用表記

創造性のネメシス