ローマ教皇制の発展と没落
世界史の授業などで、カノッサの屈辱と言えば、教皇が国王に対して優位に立った記念碑的な出来事として教えられましたが、その後教皇と国王(特に神聖ローマ帝国)との戦いは大変なもので、後世にも多大な影響を与えていたようです・・・・まさに人類歴史が大きく変わったできごと! 教皇制の成長も没落も劇的(?)で、トインビーさんは「自己決定能力の喪失」の中で「勝利の陶酔」の見本としてかなり詳しく取りあげています。 「勝利の陶酔の破滅的な結果のすべての実例の恐らく最も顕著な実例は、教皇制の長い、そして今なお生きていて長く続く歴史の章の一つによって提供される。 1046年12月2日の皇帝ハインリヒ三世によるスートリ教会会議に始まり、1870年9月20日のヴィットリオ・エマヌエレ王の軍隊によるローマの占領によって終わった一章・・・・(中略)・・・・運命の輪が回転するのに要した八百年以上という期間は、異常な偉業と異常な没落によって占められていた。」/8-p421 [低迷状態から発展へ] 「11世紀の第二四半期頃のローマは・・・・(中略)・・・・その頃のローマ人は、軍事的には軽蔑すべきものであり、社会的には絶えず動揺し、財政的ならびに精神的には破産の状態にあった。 かれらはかれらの隣人のロンバルディア人に対抗できなかったし、国の内外の教皇所領をことごとく失っていた。」1-p570/8-p436 「教皇制を刷新しようとする最初の企ては、ローマ人を除外して、アルプス以遠の国の人々を任命するという形をとって行われた。 このようになさけない状態にあり、外国人が力を得ていたローマに、ヒルデブラントとその後継者たちは、西欧キリスト教世界のもっとも重要な制度を造り出すことに成功した。」1-p571 (iyo )ヒルデブラント:教皇グレゴリウス七世の本名 「教皇制が勝利を得たのは、一つには歴代の教皇がしだいにその範囲を拡げていったキリスト教共和国の構成のおかげであった。それは敵意を呼び起こすどころか、その反対に信頼を起こさせるような構成になっていたからである。」1-p571(8-p439) 「当時教皇は世俗的な勢力の領域に足を踏み入れようとしているとの嫌疑を受けていなかった。」/8-p442 「この時代の教皇庁は領土支配をめぐる競争に関心を持っていなかった。」/8-p442 「政策として真に賢明な、世俗的野