古代ギリシア成長のための三度の試練(挑戦)
トインビーさんの分析によれば、古代ギリシア世界はその成長過程で三度の挑戦を受けています。
二度目までは効果的に応戦に成功しますが、三度目の応戦は失敗し、ヘレニック文明は挫折しました。
*ヘレニック文明:トインビーさんの分類定義した文明の1つ(大雑把に言えば、ギリシア・ローマ世界)
二度目までは効果的に応戦に成功しますが、三度目の応戦は失敗し、ヘレニック文明は挫折しました。
*ヘレニック文明:トインビーさんの分類定義した文明の1つ(大雑把に言えば、ギリシア・ローマ世界)
[一度目]
古代ギリシア人は、BC2000年紀初頭(BC3000年とも言われる)、ギリシア本土に定住します。そして最初の挑戦・・・・
「最も初期の挑戦はヘラスそのものの低地住民に対する高地住民の人間的挑戦であった。」/5-p285
「エーゲ地域に乏しい低地の平野は、それをめぐる荒涼たる高原地帯によって支配されるであろうか。平野の平和な農耕者は、山岳地帯の山賊と牧羊者に踏みにじられるのであろうか。」/5-p180
→応戦:「低地の人々は、高原地帯の侵略的隣人に対する支配権を確立することによって自営問題を解決した。そして、その勝利によってヘラスは村落の世界ではなくて、都市の世界、牧畜の世界ではなくて、農耕の世界、無政府の世界ではなくて、秩序の世界になることが決定された」/5-p180
*ヘラス:ギリシャ人がギリシャを指して呼ぶ名前
[二度目]
最初の挑戦を退けると、都市国家が生まれ、生活は安定しましたが、今度は「生産手段に対する人口の圧力」という挑戦が発生しました。
人口が増えてきて、食べ物の供給が間に合わなくなったわけです。
「低地において農業を平和に営むことが可能になったが、そのために人口が急速に増大・・・・(中略)・・・・エーゲ海世界では、農耕に適する平野は全面積のほんの小部分にすぎなくて、谷底の耕地から不毛の石灰岩の山岳が急にそびえ立っていたので、耕地と岩石地帯が接続していた。したがって耕地不足の限界には弾力性がなかった。」/5-p181
→応戦:解決策としていくつかの手段で対応
「・・・・応戦はあれやこれやの実験の形をとった。・・・・」
1.コリントやカルキスの方法・・・・「土着の住民が希薄であるか、あるいは侵入に対して抵抗することのできない海外のシチリア、南部イタリアその他の地域の領土を獲得し、それを農業植民地にする」/1-p382.スパルタの方法・・・・「もっとも近いギリシャ人の隣国を攻撃し、征服することによって市民の土地に対する欲望を満足させた。」/1-p39
3.アテナイの方法・・・・「最初これを無視し、人口過剰の圧力が社会革命を引き起こしそうな形勢になるまで、海外に植民地をおかず、ギリシアにおける近隣諸国の領土を征服することもなかった。そこで対策を講じなければならない状況になったとき、他の諸国が求めた解決の道は閉ざされていたので、アテナイは独創的な解決方法を発見した・・・・農業生産物を輸出向きに専門化し、輸出を目的とする製造工業を開始し、さらに、これらの経済改革によって勃興した新興階級にかなりの政治的発言力を与えるような政治制度を発展させた。」/1-p40
ここで上記3は大きな成功をおさめます。
「彼らは彼らにふりかかったこの共通の問題に対する解決法を発見することによって、付随的に全ヘレニック社会の前進のための、新しい大道を切り開いた。ペリクレスがアテナイの物質的運命の危機に際して、「アテナイはヘラスの教育である」と主張したのは、このことを意味していたのであった。アテナイが一個の都市国家として自分のために生きるかぎり、アテナイはヘレニック社会が終わる前に衰えたのであるが、アテナイがヘラスのために生きる限り、ペリクレスの主張は、事実によって是認されている。・・・・」/1-p40
*ペリクレス:アテネ全盛時代の指導者
[三度目]
二度目の応戦は素晴らしく目覚ましい功績をあげたアテナイですが、その結果、法と秩序の政治的機構が必要となります。
「この経済問題の経済的解決は、それと同時に、政治的に解決しなけれならない政治問題を発生させた。すなわち地方的自給自足の組織から、相互交易、相互依存の組織への経済的変化は、政治面に於けるそれに対応する変化を要求したからである。各都市国家間の経済は、各都市国家を規制する「法と秩序」の政治的機構がなければ効果的におこなわれないが、アテナイ人は前述の経済的挑戦に対する応戦に成功した結果として生じたこの政治的挑戦に応戦することに失敗した。」1-p184
「人口問題に対するアテナイ的応戦が呼び出した次の挑戦・・・・国際的無政府状態という挑戦・・・・の処理に失敗して、ヘレニック文明は成長を停止した」/6-p181
その結果は紀元前431年の挫折と、それに続く長い解体であった。(BC431はペロポネソス戦争開始の年)
このアテナイの挫折の原因は、一言でいえば「創造性のネメシス」です。
「ヘレニック社会の挫折の瞬間の年代を決定するのは困難ではない。それは紀元前431年のアテネ・ペロポネソス戦争の勃発と時を同じくする。
ヘレニック世界がそのもとで挫折した挑戦は、明らかに地方主権の制度を超越する何らかの政治的世界秩序を創造する問題だった。」/12-p301
失敗の主要原因の一つがデロス同盟です。「デロス同盟」をネット検索してみますと、
「アテネを盟主としてエーゲ海域の諸ポリスで結成された対ペルシアの攻守同盟。ペルシア戦争でのペルシア軍の来寇に備え、前478年に結成され、同盟本部はデロス島に置かれたが、次第にアテネの支配力が強まり、「アテネ帝国」といわれるほどになり、前431年のスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間のペロポネソス戦争が起こった。」・・・・「世界史の窓」より
「ギリシャ人の試みた一個の国際的な政治的秩序は、紀元前478年にアテネを盟主としてアテネとその同盟国によって建設された、いわゆるデロス同盟でありました。・・・・(中略)・・・・しかし「デロス同盟」はその目的を果たすことができませんでした。・・・・(中略)・・・・国際的無秩序に代わる何らかの国際的な法律と秩序をおきかえることの失敗に端を発したギリシャ・ローマ文明の破壊が、とりもなおさず紀元前431年から同じく43年までの四百年の歴史を占有しているのであります。
失敗と不幸にみちたこの四世紀の後、アウグスツスの時代にいたって、部分的、一時的の復活が起こりました。
『ローマ帝国』といっても、実はギリシャとその他の文化的関連をもつ各都市国家を結ぶ一種の国際的同盟のごときものであったのですが・・・・・これも「デロス同盟」がその解決に失敗した問題の、遅まきながらの一解決法であったと見なし得るでありましょう。しかし、『ローマ帝国』の墓誌銘は何といっても『あとの祭り』ということであります。ギリシャ・ローマ社会は、自らの手でおのが身に致命傷を加えるまで悔い改めることを知らなかったのであります。『ローマの平和』は一個の消耗の平和であり、創造的ならざるがゆえに永続性のない一個の平和でありました。それは当然現わるべき時期から四世紀遅れて現れた一個の平和と一個の秩序であったのであります。(試練に立つ文明p94)
ペロポネソス戦争はヘレニック文明を立ち直り不能にさせた戦争でした。その後、アレクサンドロスの東征やローマ帝国の建国など、一見目覚ましい出来事がありますが、もはやそれ以前に再起不能になっていたとの解釈です。
[ペロポネソス戦争]・・・・ペロポネソス戦争について簡単に説明
ペロポネソス戦争は、古代ギリシャのアテネとスパルタ間の対立から起きた戦争で、前431年から前404年まで続きました。当時としては前代未聞の大戦争で、現代で言えば世界大戦規模です。
単に二国間ではなく、アテネはデロス同盟、スパルタはペロポネソス同盟の盟主だったので、多くのポリス(都市国家)が加わっています。さらにはペルシャまで。
この間、アテネでは疫病も流行し、市民の1/3が亡くなったとも言われています。
結果はスパルタの勝利で終わりますが、この地方全体が疲弊してしまいました。
トゥキュディデスがこの戦争を記録していますが、その冒頭部分も引用しますと、
「アテーナイの人トゥーキュディデースはペロポネーソス人とアテーナイ人との戦いの模様を収録した。両者が戦火を交えると、この戦いが拡大することとそれが過去を通じ最も語るに値するものになることを予測して、ただちに稿を起した。つまり両者が備えのすべての面でその頂点に達して戦いに入った上に、他のヘラス諸都市も両陣営に、ある都市はただちに加わり、他の都市はそれを目ろんでいるのを見て判断したからである。つまりこの事変は実にヘラスと異語族国の一部をも含む、いわば殆どの人々の上にもたらされた最も規模の大きな事変であった。」
(筑摩書房 世界古典文学全集第11巻 小西晴雄訳 ・・・・本のタイトルは単に「歴史」となっています)
トゥキュディデス自身も元はアテネの将軍でしたが、戦いに負けて追放されてしまいました。
トゥキュディデスが青年の頃、この戦争が起こり、その全期間を通じて生きていたとのことで、この戦争を記録しました。(完結してはいない)
このブログでも、「ヤコブ路程・・・・引退と復帰」というところで、トゥキュディデスの名前を挙げていますが、トインビーさんの「歴史の研究」には、軍人として引退し、歴史家として復帰した例として3ページを割いて記述があります。この時代の書物としては非常に信頼性の高いものです。
「トゥキュディデスは、紀元前431~404年の『27年戦争』を通じて生きていたアテナイの市民であった。そしてこの戦争は彼の青年時代に起こった。こうして彼は戦前社会の成人として戦前のヘレニック世界を知るに十分な年齢の世代に属していた。同時に彼は長く生きたので、ヘレニック文明の成長の停止をもたらし、衰退と没落の長い悲劇的な運動の原因になった大破局の大詰めを見ることができた。」/6-p112
「戦争という魔物がヘレニック社会の道徳的結束を破壊した精神的力であったことを指摘した上で、トキュディデスは、このようにして人間のなかにパンドーラがみだりに開けた箱から溢れ出た悪霊の群れよろしく解き放たれた悪魔的な悪の衝動を、見事に分析し、且つ同時に徹底的に弾劾する。」/9-p88
・・・・続けて、トキュディデスからの引用がありますが、少しだけ抜粋すると・・・・
「それは謀略と報復の巧妙さの競争であった。言葉の慣習的な意味が、それを用いる人間の行為を覆い隠すために、ほしいままに歪められた。向こう見ずで無責任な行動が党派に忠節を尽くす勇気ある行為として扱われ、これに反し、慎重な態度は美名に隠れた臆病、自制は意気地なしの隠れ蓑、思慮深い政策は無為無策として扱われた。気違いじみた狂信的態度が一般に受け入れられる行為の理想となり、危険を回避する策略が合法的な自衛手段とされた。感情の激越さが誠実さの保証であり、それに反対すれば疑惑を招いた。・・・(中略)・・・・このように階級戦がヘラス社会をあらゆる種類の道徳的悪に突き落とした」
/9-p88
「紀元前431年のアテナイ・ペロポネソス戦争勃発に伴なって起きたこの精神的崩壊は、その後一世紀間、大戦の余波の戦乱と革命の世紀を通じてどんどん進行したが、その最初の社会的結果として、多数の、しかもますます数のふえてゆく、浮草のような「国家のない」流民がうまれた。ヘレニック文明の成長期には、このように自分の生まれた社会的環境から引き離されるという経験は、ヘラスではめったに見られなかったことだったし、考えるだけでも恐ろしいことだった。」/9-p90
「・・・・国外追放者のありつくことのできた唯一の職業は、傭兵になることであったからである。このようにして兵員が過剰になると、それが新たな戦争を誘発する原因になる。そして、その戦争によってまた新たな国外追放者が・・・・したがってまた、さらに多くの傭兵が・・・・」/9-p92
その後400年かかって、最終的にはローマ帝国という世界国家建国によって地中海周辺は統一されますが、とりわけ最後の100年間は反乱、戦争続きで「内乱の一世紀」とも言われ、帝国は瀕死の状況、その国内はガタガタでした。
ローマ帝国は、衰退を食い止めるために最後の力をふりしぼった結果です。
ペロポネソス戦争は、スパルタが勝利しています。ということは、カインがアベルを殺害してしまった状態で、最終的には失敗の歴史です。
ところで「聖書の歴史展開」にも書きましたが、スパルタを兄、アテネを弟と見立ててカインとアベルに重ね合わせると、非常に興味深く感じられました。
実際には、戦争によってこの地方は衰退してしまいましたが、もしも(!)・・・・戦争を回避してアテネとスパルタが(ヤコブとエソウのように)仲良し兄弟になって、ギリシャの都市国家全体がまとまることができたと考えると・・・・(そんな簡単ではありませんが、考えるだけなら自由です)・・・・「内乱の一世紀」は無かったかも知れませんし、400年間も穏やかだったかもしれません。
この過酷な動乱時代400年を経て、間に合わせ的にローマ帝国がやっと建国され、イエス様がお生まれになったというのは偶然でしょうか?
考えてみると、イスラエルの田舎のほうでは、これからイエス・キリストが生まれようとする時、帝国建設のために頑張っていたのが、ジュリアスシーザーやアウグストゥスでした。
このギリシャ世界の歴史では、課題は一体化であったといえるかもしれません。次第にレベルを高めて要求される一体化に対して対応できなくなったようです。
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