創造性のネメシス

 ネメシスは、ここではむくいとか、神の憤りと罰というような意味
 人間が神に働く無礼に対する、神の憤りと罰の擬人化(ギリシア神話の女神)

「文明の歴史において、同一の少数者が、二つもしくはそれ以上の、あいついで現れる挑戦に対して、創造的な応戦を行うことは稀のように思われる。
実際、一つの挑戦の処理によって名を挙げたものは、次の挑戦の処理にまんまと失敗することが多い。」 1-p504

例1.聖書からイエス様が誕生する前後のパリサイ人、律法学者
当時はローマ帝国の建国の時期でした。
ヘレニズム化の波が押し寄せるイスラエルで、ユダヤ民族の英雄的な反抗の先頭に立って頭角を現し、指導的立場についたのがパリサイ人、律法学者でした。
しかし、その2~3世代後に起こったメシヤの降臨という、より重大な事態に対しては彼らは反対の立場にまわってしまい、メシヤを受け入れたのは取税人や遊女でした。(1-p504)(/8-p4)

例2.使徒パウロのアテネ伝道(使徒行伝17章16節)
パウロは当時のアテネのアカデミックな雰囲気を感じ取り、聴衆に受け入れやすい特別な配慮をもって語り、最善を尽くしたのですが、実り少なく終わったようで、その後パウロはコリントへ向かいます。
これも「アテネはヘラスの教育である」と自負していた過去の栄光が妨げとなって、聞く耳を持たない状態を作り出していたようです。
「信じたものも、幾人かあった」とか。(1-p509)
新約聖書では、コリント人への手紙はかなり長いものが第一、第二とあるのを見れば、コリントでの収穫はアテネに比べて非常に大きかったのでしょう。

「一つの章で成功した創造者が、まさにこの成功によって、次の章に於いて再び創造的な役割を果たそうと努める際に、大きなハンディキャップとな」ってしまう状態です。/8-p28
トインビーさんはこれを偶像崇拝と見ています。

 「『漕ぐ手を休めて』いる態度は、創造性のネメシスに対する受動的な屈服と言うことができるが、この精神状態が消極的であるからといって、道徳的な欠陥がないことを保証するものではない。
現在に対してぼんやり手をこまねいて受動的であるのは、過去のことに心を奪われているからであり、そしてこの過去への心酔は、ヘブライの原始的宗教体系に於いて『嫉妬深き神』の復讐を最も呼び起こしやすい罪である偶像崇拝の罪なのである」/8-p31

平たく言えば、自分でつくった価値観を拠り所にして、お高くとまっている状態ということでしょう・・・・そうは言われても、自分がそのような状態に陥っていることを自覚するのも難しいですね。

これはとても厳しい戒めで、一般社会を見る時、周囲の人々が注目するようなひとかどの仕事を成せば、本人はそれで終わってしまうことが多いように思います。

「創造性のネメシス」は、文明の挫折(縮刷版では文明の衰退)の原因として挙げられています。
上記のユダヤ人、アテネなどは「一時的な自己の偶像化」として分類されていますが、他に「軍国主義の自殺性」、「一時的な制度の偶像化」、「一時的な技術の偶像化」など沢山の例があります。
特に私が関心を持ったのは、「勝利の陶酔」として挙げられているローマ教皇制で、トインビーさんもここでは、かなり多くの紙面を費やしています。「ローマ教皇制の発展と没落」という見出しにして別掲しました。

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