偶像崇拝

 「偶像崇拝」は「歴史の研究」の中に頻繁に出てくる言葉です。

トインビーさんは宗教に深い理解のあるかたですが、偶像崇拝を以下のように定義しています。
「偶像崇拝は、全体ではなく部分、創造主ではなく被造物、永遠ではなくて時間に対する、知的ならびに道徳的に半ば盲目的な崇拝であると定義することができよう。」/8-p31

さらに続けて、
「そして人間の精神の最高の能力をこのように濫用し、その最も強力な精力を誤った方向に向けることは、偶像化の対象に致命的な影響を及ぼす。
それは神の『口にしがたいほど崇高な作品』の一つを『立ってはならぬ所に立っている荒らす憎むべきもの』に変えるという、よこしまで不幸な奇蹟を行う。」/8-p31

このように定義されてしまうと、現代人は殆どが偶像崇拝に陥っていると言えるでしょう。
実際、「偶像崇拝のはびこるジャングル」と呼んでいる箇所もあります。

また、次のようにも・・・・
「人間が集団的自己を崇拝することは偶像崇拝である」/15-p93 
そして現代文明が高等宗教から離れつつあることを心配しています。

「高等宗教が世界に対するその支配力を失いつつあった世界に於いて、1952年には『イデオロギー』のなかに失われた高等宗教の身代わりを見出していた多くの人びとがいた。
そして幾つかの国では、この新しい世俗的信仰への改宗者が非常に勢力を得て政府の支配権を奪取し、国家の全権力を使って自分たちの教義と慣行を同胞に強制した。
こうした方法によって共産主義はロシアに、ファシズムはイタリアに、国家社会主義はドイツに打ち建てられた。
しかし、集団の力という甲冑を着けた自己に対する人間の昔からの崇拝の復活のこの甚だしい実例は、この精神的病幣の実際の普及の程度を示すものではなかった。
その最も重大な徴候は、その市民が自分たちは他の人々、もしくはこのファシストや共産主義者とさえ違っていると言って自ら悦に入っている、民主的であり、キリスト教的であると公言している国々において、人口の六分の五の宗教の五分の四は、蜂による蜂の巣の、そして蟻による蟻塚の崇拝という原始的異教信仰であったことである。
この復活した偶像崇拝は愛国心という美名のもとに隠されることによって救われなかった。
そして実にこの一般に知られていない偶像崇拝の影響力は、・・・・(中略)・・・・率直な形の偶像崇拝よりも悪質であった。
この集団的自己崇拝は立ちのいた高等宗教に取って代わろうとして押し寄せていたすべての下等宗教のうちの最も邪悪なものであった。」/15-p169

上記は完訳版。下記は2-p481から始まる縮刷版。

高等宗教が駆逐されると、下等宗教がその空白を埋める恐れがある。
二、三の国に於て、ファシズムや共産主義、国家社会等の新しい世俗的イデオロギーに転向した連中が力を得て政権を握り、残忍な迫害手段によってその教説と実践を強制した。しかしながら、これらの特に目につく、集団的権力というよろいで身を固めた、人間の古くからの自己崇拝という病気再発の例によって、この病気の蔓延の程度を知ることはできない。
最も重大な徴候は、民主主義とキリスト教とを看板に掲げている国ぐににおいて、住民の六分の五の宗教の五分の四までがいまや事実上、愛国心の美名に隠れた共同社会を神として崇拝する原始的異教になってしまっていることである。
2-p481

(iyo )この本が書かれた当時は、少し前に第二次世界大戦が終わったばかりで、東西冷戦の最中でしたので、相応の表現で書かれています。

「キリスト教は今も西欧諸国の名目上の信仰になってはいるが、実際には、才智にたけ、活動的な人びとは、キリスト教の理想に対して口先だけの尊敬を捧げることすらしなくなっている」・・・・バーンズの著書からの引用(2-p458)

(iyo )偶像崇拝は多くの文明を滅ぼした!

「衰退した文明は、自分で造ったなんらかの偶像の奴隷になり、健全な選択の自由を失った者であることが判明した。
二十世紀なかばの西欧文明社会は明らかにいくつかの偶像を崇拝しているが、その中で特に目立つのは地方国家の崇拝である。
この後近代期西欧社会の生活の特徴は、二つの理由から、不吉な結果を予想させる恐ろしい前兆である。
第一には、この地方国家の偶像視ということが、公然と認めてはいないが、西欧化しつつある世界の住民の大多数の真の宗教になっているからであり、第二には、この邪教が、記録に残っている二十一の文明のうちの少なくとも十四、ひょっとすると十六の滅亡の原因になったからである。」3-p315

「西欧文明の後近代期においては、地方主権国家の偶像化のもたらす災禍は、それを駆り立てる悪魔的な力によって一層はなはだしくなってきている。
世界教会の抑制力は取り除かれた。
国家主義の形を取って現れるデモクラシーの力が、多くの場合、なにかある目新しいイデオロギーと結びついて、戦争を以前より苛烈なものにし、産業主義と技術の発展が、戦う人間にますます破壊力の増大する兵器を提供した。」3-p316

(iyo )以下で「〇」の部分はPCの漢和辞典で探しても見つからない文字・・・・さかなへん。
レヴィアタン(リヴァイアサン)は、聖書では竜のような大ヘビ(魔物)です。 

「集団の自我がより危険なわけは、それが一層力強くまた悪魔的であるばかりでなく、信仰するに価しないことがそれほど明瞭に分からないからである。
集団の自我は、その信者それぞれの微弱な個人の力を結集して大〇レヴィアタンのごとき集団の力とするのであるが、この集団の力は、個々人の自我になんらかの抑制を加える理知と意志の支配下を脱しているゆえに、それは潜在意識下の感情のなすがままになるものである。
そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇なく良心の呵責をうけるはずの悪業も、それが大〇レヴィアタンの犯すところとなると、一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになるのである」 (「一歴史家の宗教観」の「人間崇拝(1)」P51) 


「西洋人の魂はいつまで宗教なしに生きてゆくことに堪えられるか。
精神的空虚の不安に駆られて、西洋人がナショナリズムやファシズム、共産主義等の悪魔に対して門戸を開くようになった今日、かれらの近代後期に到達した寛容の信仰がいつまで試練に耐えられるか。
西欧キリスト教の諸宗派が西欧人の感情と理性に対する支配力を失ったものの、まだ西欧人が目標のなくなった信仰心を向けるべき代わりの対象を発見していなかった微温的な時代には、寛容の態度を維持することは容易であった。
しかし、西欧人が邪教を崇拝するようになった今日、十九世紀の寛容の精神は二十世紀の狂信に対抗することができるだろうか。
かれらの父祖の『唯一の真の神』から離れて荒野の中をさまよい歩く西欧人は、にがい経験を通じて、地方国家が宗派教会とひとしく、その崇拝が平和をもたらさず、つるぎを投げ込む偶像であることを悟った今日、それに代わる偶像崇拝の対象として、『集団的人間性』を選ぶようになるかも知れない。」3-p319

以下は、「世界教会」の補論として書かれた「高等宗教の歴史の先史的背景」より(/15-P664)

「われわれは高等宗教の影響力のお蔭でもたらされた精神的水準の向上は、付随的に物質的福祉の向上をもたらし得るということ、そして精神的進歩のこの付随的な現世的効果は、人間を恐るべき誘惑にさらすことを見た。
精神的陣痛からの物質的収穫は、人間の精力を精神的水路から物質的水路へそらす傾向がある。
こうして精神的退歩は以前の精神的進歩がもたらした物質的向上の結果であるかもしれない。
逆に自分の宝を「神の国」から「豚の共和国」に移すことによって、挫折し解体した文明の歴史において、生命を救おうとすることによって生命を失うという幻滅的な経験は、人間の眼をこの世の空しさに開かせ、人間の耳にこの段階で高等宗教を通して人間に語られた神の言葉を再び傾聴させたことを見た。」/15-P670

(iyo )文明を手に入れることによって、偶像崇拝がどのように育っていったか・・・・バーグマンの著書からの引用が載せられています。
西欧人が初めてオーストラリアに渡った当時、先住民たちはまだ旧石器時代の生活だったようです。

「黒い人が裸で恥じることなく住んでいたオーストラリアのエデンの園は、全然白人に魅力がなかった。
白人は知恵の木の実を食べて、自然界と人間界に対するその態度を一変させていた。
彼らが自分の身体を文明の衣装で装い飾るにつれ、自分の心と意志から一切の慣習の抑圧と神聖な法令を脱ぎ捨てていった。
ついに、『人間』権力への意志が赤裸々に恥ずるところなく現れた。
・・・・彼はますます自然によるすべての導きから自分を解放し、ついに自由の幻影のなかで、自然に立ち向かい、自然を自分の目的に利用し、自分の意志に従わせるようになった。
この事態は進んで、ついに文明人は自然の基盤でもはや神に全く会うことがなくなった。
神は無視された。文明人は、『自分はそうした仮説を必要としない』と確信している。
このことは要するに人間を人間自身の神にするのである。」/15-P672 

(iyo )現代はまさに「豚の共和国」の絶頂期といったところでしょうか。・・・・あるいはこの先さらに高い絶頂が控えている(?)
それも豚ならば分かりやすいのですが、最近は表面的にはとてもスマートで目にも耳にも心地よいのでなかなか分かりにくい!

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創造性のネメシス