共産主義

トインビーさんが1956年に来日されたとき、国際キリスト教大学、東京大学で「精神的課題としてのイデオロギー戦争」というタイトルで講演されていますが、その内容が「歴史の教訓」(松本重治編訳)にあります。

当時は共産主義の問題に触れないわけにはいかない冷戦時代で、二つの勢力をここでは「西方陣営」、「共産陣営」と呼んでいます。

西方陣営と共産陣営の係争点は何かという問題に対して・・・・
「名目的には、その係争点は経済的のものである。すなわち、自由な私企業の長所か、経済生活の国家による統制規制の長所かという問題である。しかしながら、この係争点は、現実と一致しない講壇理論にすぎない。
・・・・(中略)・・・・
それでは、共産陣営と西欧陣営とのあいだの本当の係争点はなんであろうか。
それは政治的な問題であり、また道徳的ならびに精神的な問題である。すなわち個人としての人間の人格的な自由と、共同社会に対する個人の従属の問題である。
・・・・(中略)・・・・
経済上の係争点とは違って、それが妥協することによって処理することのできるようなたんなる分量上の問題ではないことがわかる。この場合には、原理上の問題があらわれている。
すなわち、個人としての人間がそれ自体において目的であるのだろうか。あるいは、蜜蜂が蜂の巣のための手段であり、蟻が蟻塚のための方便であるのと同様に、個人としての人間は共同社会のための一手段に過ぎないのだろうかという問題である。
これは宗教上の問題であって、経済上の問題ではない。」(P182)

「共産主義者は、共産主義が宗教であることを否認している。
かれらは、自分たちがいかなる種類の宗教もいっさい追放してしまったと主張し、共産主義が宗教に基礎をおくものでなくて科学に基礎をおくものであると主張し、そしてこのことから、その他の諸点と同様に、共産主義が、人間の歴史における新しい出発なのだと主張している。
しかし、本当は、共産主義は、たしかに宗教であり、正真正銘の宗教であり、しかも新しく見えるイデオロギー的よそおいにもかかわらず、むかしながらの宗教である。
共産主義は、ナショナリズムと同様に、集団的な人間の権力を崇拝する一つの現象である。」(P185)

「この人間集団たる社会はトーマス・ホッブスが「リヴァイアサン」と渾名したものである。
・・・・(中略)・・・・
かれらは、リヴァイアサンにつかえるために、おのれを捧げ、また、そのリヴァイアサンのために自分自身を犠牲にすることも正しいと思うであろう。かれらは、事実このことをやっている。」(P186)

(iyo )こちらにも偶像崇拝の定義を書きましたが、トインビーさんに言わせれば、共産主義は文句なしの偶像崇拝です。
リヴァイアサン・・・・聖書ではレビヤタンとなっています(イザヤ27章)

「共産主義は集団としての人間の権力を大切にしており、西欧は個人としての人間の人格を大切にしている」(P187)

「今日、西欧は、共産主義側が自分の信念の基礎についてもっているほどの確信もなければ、自信もないように思う。
集団としての人類というものの無上の価値に対する共産主義側の信念は、宇宙の性質に関する共産主義の基本的教義からくる明白な論理的結論である。
イデオロギーの教育を十分に受けた共産主義者なら、だれでも、共産主義の原理上、どうして個人としての人格が集団的な人類というものに従属させられるべきかを理解している。
ところが、今日の西欧の人びとは、自分たちが個人としての人格を神聖視する根拠を説明することを求められると、かれらは、いろいろと違った答えをだす。」(P188)

(iyo )先生も同じようなことを言われています。(1987/05/15 ソウルでの南北統一運動国民連合創設のメッセージ)
「アメリカをはじめとした自由世界の弱点は、思想の空白が存在するという点です。物質の豊穣と自由の澎湃が、価値観の混沌と世俗的な人本主義の台頭をもたらしたという事実です。自由世界は、思想的な面において繰り返し後退してきました。これは滅びゆく共産世界が、最後まで世界赤化の野望を放棄しない理由なのです。
・・・・(中略)・・・・
共産主義が速やかに衰退しない原因は、私たちにはっきりとした代案がなかったからです。また、より優れた思想によって武装されていなかったからです。」(天聖経1211ページ)

「私たちは、あのベトナムの例から大切なことを学ばなければなりません。ベトナムは統一されたのではなく、ソ連の奴隷になったのです。それは真の統一ではありません。ベトナムの赤化12年の間に、自由を求めて脱出した数十万の人々がボート・ピープルとなって海上で息絶え、数百万の人々が粛清されました。いわゆる統一されたという共産国ベトナムは、国民所得が百ドルにも満たない世界最悪の貧困国に転落してしまいました。」(天聖経1209ページ)

以下、再びトインビーさん(「歴史の教訓」より)

「西欧側が集団としての人類の至上の価値に対する共産主義の信念に互角に対抗してゆけないことは確かである。
西欧側の、人間というものに対する信念が、共産主義側の信念に対抗してその地位をまもりうるのは、キリスト教の神に対する信念に基盤をおいてはじめて可能なのである。」(P189)

「もし西欧がふたたびキリスト教になるとすれば、それは、伝統的な形でのキリスト教にもどりはしないであろう。
われわれは、17世紀以来の西欧の人間の知的な発達と精神的な経験というものを消し去ることはできないのである。
それゆえに、われわれは、運命をかけて、キリスト教の真髄と、キリスト教にたまたま附加されたものとを取り除くように努力しなければならないわけである。」(P190)

(iyo )トインビーさんはあくまでもキリスト教に希望を持っておられたようです。
この講演の最後のところで、その附加物の例を挙げていますが、その一つには、なんと、
「神が人間の姿をとったということに関する神話」
を挙げています。

キリスト教には、多くの附加物がくっついていて何が真髄なのか見分けが付かない状態の上に、中世時代以降にやらかしたむちゃくちゃな行為は、随分と神様やキリスト教への信頼を落とすことになってしまいました。
もともと共産主義の生みの親はキリスト教と言ってもいいくらいです。

以下、原理講論の総序より
「ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。
悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。
この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。
初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。
これがすなわち共産主義である。
神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。
このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。
共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。
これは甚だ寒心に堪えないことであった。
のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。」


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創造性のネメシス