国家主義と世界主義

「国家主義」をネット検索してみると、(Wikipediaより)・・・・
国家主義とは、国家を「最高の価値あるもの」や「人間社会の最高の組織」と見なし、「個人よりも国家に絶対的な優位性があるのだ」とする考え方である。
あるいは「国家に至上の価値がある」と主張して、国家的な秩序や、国家による命令、自分の属する国家が軍事的に強いことなどを他の全ての価値に優先させようとする政治的な主張を指す。 
国家主義的な立場をとる者、そのような思想を持つ者を「国家主義者」と言う。

一方ナショナリズムは、
国家という統一、独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想や運動を指す用語。
日本語では内容や解釈により国家主義、国民主義、国粋主義、国益主義、民族主義などとも訳されている。
パトリオティズムとは区別される(パトリオティズム:愛国心とか祖国愛)

ここでは 国家主義=ナショナリズム として話を進めることにさせていただきます。

トインビーさんの国家主義に対する風あたりは非常に強く、著書の「現代が受けている挑戦」を読んでみると、その第六章(分裂感情の激化)の「国家主義の拡大」という見出しに続く文章は、以下のように始まっています。

「核時代において人類を自滅に導こうとしている国家主義は、・・・・」(現代が受けている挑戦p178)
その後僅か6ページくらいですが、さらに悪化が進んだ経緯が書かれ、終わりのあたりでは、

「核時代において国家主義は死を望むことであり、そして現在は国家主義が優勢である。国家主義の解毒剤は世界主義であって、世界主義が表現を見出した二つの歴史的な制度が世界国家と世界宗教である・・・・」(同p184)
(この本は、1964年の大学で行った講演がもとになっているとのこと)

世界国家と言っても、ここではローマ帝国やペルシアなど、世界の一部だった歴史上の世界国家ではなく、文字通り地球全体に拡がる国家・・・・トインビーさんの目指したもの・・・・になるでしょう。

「17世紀の最後の20~30年は西欧でキリスト教の後退が始まった時期だった。この退潮は私たちの時代になってからも続き、それが食い止められる兆しが見えてきたのは、第二次世界大戦が終わってからのことである。
しかしこのようにヨーロッパ人の心に対するキリスト教の勢力が弱まったことは、必然的にその心を非キリスト教的な信仰の対象に向けることになった。これは・・・・当然起こるべきことであった。・・・・したがってこの三世紀の間にしだいにキリスト教から離れていった人々の心は、キリスト教の代わりを見つけてその方に向かわなければならなかった。
その結果見つけられたのがキリスト教以後の各種の思想だった。それらの中の三つの主要なものは国家主義、個人主義、および共産主義で、そしてこれらの三つの中では国家主義が最も強力に西欧人の心に結びついた。いずれにせよ国家主義は、他の思想がこれと対立する時には常にそれらに勝つ。」(同p181)

アメリカ合衆国とか日本なども国家主義を崇拝しているとのこと。
ソ連が共産主義国でありながら、スターリンとトロツキーの争いの結果、スターリンの国家主義(ナショナリズム)を優先したことはよく知られていてこの本にも書かれています。

ではアメリカ合衆国は・・・・
「個人主義とアメリカ国家主義との間の利害の衝突は、アメリカ国家主義の立場に立って決着がつけられた。個人主義はアメリカに確立したイデオロギーである。しかし今日米国はその軍隊において世界最大の社会主義的企業を実施しており、最も教条的なアメリカの個人主義者も、米軍の軍隊を政府の手から私企業の手に移すべきだとは主張しない。アメリカの個人主義者たちがこの巨大な社会主義を許容するのは、何よりも先ず国家主義者だからであり、軍備の社会主義化がなければ国力を持つことはできないのである。」(現代が受けている挑戦p282)

「個人主義者も共産主義者も、等しく第一に国家主義者なのである。彼らは二番目に個人主義者であり、共産主義者なのである。・・・・すなわちこれらのイデオロギーが国家主義を侵さない限りにおいてのみ、ということである・・・・。
キリスト教以後の三つのイデオロギーのうち、国家主義が最も強大であることが示された。同様に、国家主義が三つのうちで最も分裂主義的であることは不幸なことである。」(同282P)

「国家主義が共産主義あるいは個人主義と衝突するときには、常に国家主義が勝つのである。」(同p81)

「ナショナリズムは、一種の宗教であり、私が”低次宗教”と呼ぶものの一つであるというのが、私の見解です。ナショナリズムは、人類の一部分の集団的な力を、他の部分を犠牲にして信仰することです。」(未来を生きるP292)

「うわべを一枚めくると、私たちはすべてナショナリストです」(同P293)

以下は「歴史の研究」より(このブログの「偶像崇拝」でも引用していますが・・・・)
「高等宗教が世界に対するその支配力を失いつつあった世界に於いて、1952年には『イデオロギー』のなかに失われた高等宗教の身代わりを見出していた多くの人びとがいた。
そして幾つかの国では、この新しい世俗的信仰への改宗者が非常に勢力を得て政府の支配権を奪取し、国家の全権力を使って自分たちの教義と慣行を同胞に強制した。
こうした方法によって共産主義はロシアに、ファシズムはイタリアに、国家社会主義はドイツに打ち建てられた。
しかし、集団の力という甲冑を着けた自己に対する人間の昔からの崇拝の復活のこの甚だしい実例は、この精神的病幣の実際の普及の程度を示すものではなかった。  
その最も重大な徴候は、その市民が自分たちは他の人々、もしくはこのファシストや共産主義者とさえ違っていると言って自ら悦に入っている、民主的であり、キリスト教的であると公言している国々において、人口の六分の五の宗教の五分の四は、蜂による蜂の巣の、そして蟻による蟻塚の崇拝という原始的異教信仰であったことである。
この復活した偶像崇拝は愛国心という美名のもとに隠されることによって救われなかった。
そして実にこの一般に知られていない偶像崇拝の影響力は、・・・・(中略)・・・・率直な形の偶像崇拝よりも悪質であった。
この集団的自己崇拝は立ちのいた高等宗教に取って代わろうとして押し寄せていたすべての下等宗教のうちの最も邪悪なものであった。」/15-p169

新約聖書からも引用されています・・・・
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
マタイ2/43  (/15-p171)

しかし、国家主義も最初からそういうものではなかったようです・・・・「西欧の国家主義は初めは比較的ゆるやかなものだった。」(現代が受けている挑戦p179)

教皇庁の失敗などで、愛国心というものが捻じ曲げられた・・・・ローマ教皇庁が健全に発展していれば、国家のレベルを超えて世界レベルに近いものが作られていたかもしれません。(このへんは「ローマ教皇制の発展と没落」の「結果、影響」を参照)・・・・もちろんそれがすべての原因ではないのですが・・・・そしてその結果が西欧文明とともに世界中に輸出された!

ナショナリズムについては、こんな記述も・・・・
 「部族主義という古いびんにつめられた民主主義という新しい酒を酸化させる酵素である。
わが西欧世界の民主主義の理想は、全人類は同胞であるというキリスト教的直観を、実際政治に適用することであるが、この新しい民主主義の理想が西欧世界で発見した実際政治は、決して世界的でもなければ人道的でもなく、部族的で好戦的であった。
こうして近代西欧の民主主義的理想は、二つの精神を融和させ、殆ど正反対の二つの力を溶解させようとするこころみである。ナショナリズムの精神はこの政治的「離れ業」の心理的産物である。
そしてナショナリズムの精神は、『与えられた社会の一部分を、あたかも全体社会であるかのように人々に感じさせ、行動させ、考えさせる精神である』と定義することができるであろう。」/1-p15

「愛国心という美名」の裏には国家主義が隠れていて見分けがつきにくいし、自分でも気づかないまま行動している!・・・・国家を超えられないこんな状況で、恒久的な世界平和を実現するというのは可能でしょうか?、それとも絵にかいたモチ?

歴史を振り返ってみると、「過去に世界国家だった国はすべて最終的には分裂感情の習慣に屈した。それらの中で分解してしまわなかったものは、その世界主義を放棄するという犠牲を払って生きながらえた・・・」(同p188)

これでは一旦は世界国家が達成されたとしても、継続することも難しいのでは?

過去にあらわれた世界国家はどのようにして実現されたのか・・・・
「これまでの殆どの場合、世界国家、あるいは、準世界国家を力で押しつけることによって、ナショナリズムは、抑圧されてしまいました。ナショナリズムは、押さえつけざるをえないものだったのです。」(未来を生きるP293)

例えばローマ帝国・・・・無茶苦茶に多くの犠牲を払って、カルタゴをやっつけ、マケドニアもやっつけて、武力で世界国家を実現しました。しかしそのために、一時は自分自身も立ち直るのが困難なほど疲弊してしまいました。
世界国家が作られるとき必ずと言っていいくらい反乱も起きています。

確かに継続するのは難しそうですが・・・・、
「しかし過去の世界国家が世界国家としての自らの維持に失敗したということから、私たちは文字通りに世界的規模で、永久的な世界国家を建設の見込みがないと結論するのは誤りである。
過去の世界国家の歴史を調べれば、そこには失敗ばかりでなく、成功も見出される。いくつかの世界国家はそれらが存続した限られた期間、もともとは力ずくで従属させられた人々の尊敬と忠誠を獲得するのに成功している。このことは
国家主義と同様に世界主義も人間にとって魅力があるものであり、たとえ理想通りには実現しなかったにしても、その精神においては世界を志向し、意図においては世界的な規模である一つの体制の下に引き続き何世代も生きた経験がある国民がその魅力を感じていたことを示している。」(現代が受けている挑戦p188)

「私たちにその歴史が知られている過去のあらゆる世界国家は初めが悪かった。」(同p188)
戦争の結果、出来上がった世界国家でも、その中の住人が受け入れたのちは、愛着を感じ、永続を望むことも多いようです。この点についてもローマ帝国を例にすると、

「その崩壊が預言できるほど衰えた五世紀には、その市民たちは彼らの帝国に新しい名前を作り出し、帝国に対するその愛着を表した。彼らの世界帝国をローマニアと呼び、彼らは自分たちが皆ローマ人であり、ローマ人の世界国家は彼らの共通の母国と感ずるに至ったということを示したのである。」(現代が受けている挑戦p194)

もともとその文明が挫折した後に作られるのが世界国家です。その後立ち直る可能性は殆ど無いのですが、それでも永遠性や平和を謳ったりする方も多いようです・・・・そのような願望を込めて。

歴史の研究には「不滅の幻影」とか「不死の幻影」という見出しがあります。(/14-p27)
「世界国家は、社会的解体の過程の副産物であり、創造的ではなく、一時的なものであるという刻印を押されていることは明らかである。このような観察者は当然のことながら、世界国家の市民が、明らかに明白な事実に逆らって世界国家を荒野における一夜のかりの宿とは思わず、約束の地、人間の努力の目標として考えたがるのは何故であるかと問う」(/14-p28)

過去に出現した世界国家は「初めが悪かった」のですが、それでも讃える人たちが現れたわけですから、もうちょっとましな(?)経緯で作られれば、期待の持てる世界国家ができるのではないでしょうか。

「歴史の教訓」の中には、こんな文章も見られます・・・・
「原子力時代においては、人類は、自分たちをほろぼすまいとすれば、一つの家族となって生活することを学びとらねばならない。・・・・世界に襲いかかっている国家主義の波濤を乗り越え、克服して啓示されなければならないからである。われわれは、より狭義の利害関係をより広義の利害関係に従属させるように、我々自身を訓練しなければならない。しかも、このことは、はげしい精神的な苦闘なしには行いえないことなのである。」(序文より)

ところで、うちの先生も共産主義を克服した後、晩年には国連の改革等を提唱していました。(先生の生涯を見ると、「克服」という言葉が相応しいので敢えて使用)

2000/08/18  ニューヨーク 国連本部にて講演した記録がありますので、一部分を抜粋します(ここでは先生の奥様がスピーチ)
「世界と国連が行くべき道」より・・・・国連を二院制にしようという提案
多くの人々は、国連は世界平和のための人類の理想が制度化された組織であると思っており、これに期待をかけています。国連には、世界の問題を解決し、平和と人類繁栄を促進するために、共に働く、あらゆる国の代表者たちが集まっています。
しかし、国連で国家の代表者たちが世界平和を実現しようとする努力には相当な障害があります。国連を通じて得た実績と成果を否定してもいけませんが、国連自体が改善されるべき点も多いと思われます。世界の政治家と宗教指導者が国連を中心として、互いに協力し、尊重する関係が切実に必要とされる時となりました。
・・・・(中略)・・・・
人間社会の諸般の問題は、根源的に、単なる政治的な問題ではないため、社会的、政治的解決だけでは常に不十分です。人間社会の殆どは政治的に統治されていますが、その一方で、大部分の国家的、文化的アイデンティティーの根底には宗教があります。実際、殆どの人々は、その心の中に、宗教的な忠節のほうが政治的な忠節よりもはるかに重要であるという認識を持っています。
・・・・(中略)・・・・
体と外的な世界を代表する政治家や外交家たちの経綸と実践だけではなく、心と内的な世界を代表する超宗教指導者たちの知恵と努力が合わさってこそ、平和世界が完全に達成されるのです。そのような観点から、国連を再構成する問題まで深刻に考慮すべき時です。両院制の形態をもった国連を考慮することもできるでしょう。
国家の代表たちで構成された既存の国連を、各国家の利益を代弁する下院と考えることができます。一方、著名な超宗教指導者など、精神世界の指導者たちで、宗教議会、あるいは国連の上院を構成することを、深刻に考慮していただくことをお願いします。このとき、超宗派的な宗教議会は、地域的な個々の国家の利害を越えて、地球星と人類全体の利益を代弁しなければなりません。
そして両院が相互に尊重し協力し合うことによって、平和世界の実現に大きく寄与できるはずです。世界の指導者たちの政治的な経綸は、世界の偉大な超宗教指導者たちの知恵とビジョンにより効果的に補完できるでしょう。(平和経1392ページ)

同日、同じ国連本部において先生も「国境線撤廃と世界平和」と題して講演されています・・・・こちらはもう少し宗教的な語り口で、原罪の問題やその救済等についても触れています。

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参考文献、引用表記

創造性のネメシス