支配者が国の宗教を決定する?

 この見出しをネット検索してみると、(AIの説明)
「支配者が国の宗教を決定する」という原則は、歴史的に「クウィウス・レギオ、エユス・レリギオ(Cuius regio, eius religio)」と呼ばれ、特に16世紀から17世紀のヨーロッパにおいて、国家の信仰の統一と政治支配を両立させる仕組みとのことでした。
・・・・1555年のアウクスブルクの和議で成立しました。
・・・・諸侯(領主)が自身の領土において「カトリック」か「ルター派」かを選択できる権利を認めました。
(以下省略)

現代から見ると、とても非常識な話ですが、本当にこういうことができるのか、そのためにはどんな代価が必要になるかを、カトリック・ルター派にかかわらず、イスラム教や仏教などについても調査しています。

はじめに、CG・ユング(心理学者)の言葉が引用されています。
「偉大な革新は決して上からは起こらない。それは常に下から起こる」/11-p115

「支配的少数者によって考え出される哲学と、内的プロレタリアートによって発見される宗教とが、信奉者獲得競争に於てぶつかり合う時、その争いの結果」は、「一般に勝利者であることが判明するのは、内的プロレタリアートの方であって、支配的少数者の方ではない」・・・・ということが多いようですが・・・・、
「しかしまだ、はたして支配的少数者はその精神的弱点を物理的な力の行使によって補い、不当ではあるがそれにもかかわらず効果的な政治的圧力に物を言わせて、哲学もしくは宗教を上から下へ、彼らの被支配者に強制することができるか、という問題が残されている。」/11-p115

(iyo )「内的プロレタリアート」、「支配的少数者」についてはこちらを参照。

以下の結論・・・・
「歴史的事実を調べてみると、政治権力は精神生活に影響を与える力が全然ないわけではないが、この分野で作用しうるのは特殊な事情の組み合わせのもとに於てであり、しかも、その場合に於てすら、その作用範囲はごく狭い範囲に限られることが判明する。実際、政治的権力者が時折試みる、宗教の領域に於て政治的手段を利用して彼らの意志を通そうとする努力の歴史に於て、成功は例外的であり、失敗が通則である。」/11-p117

ではどんな時が例外なのか?・・・・例として、ローマ帝国建国時のことが書かれています。
「典型的な例は、解体期のヘレニック世界の人間支配者の神格化である。この慣習は・・・・(中略)・・・・ユリウス・カイサル、カイサル・アウグストゥス、およびその後の歴代ローマ皇帝の神格化に於いて最高潮に達した。この二世紀半の間、ローマ皇帝崇拝は成功であった。」/11-p118
「このような強い感動を引き起こすとは、大したことである」/11-p119
では、この大成功の理由は?
(それまでの)「四世紀にわたる疾風怒濤時代の終わりに元首政がヘレニック世界に与えた、統一と平和というこの上なく貴重な贈物に心から感謝していたし、その事業が彼ら自身にとって無上の価値をもつと同時に、非常に困難なことを知っていたので、大して疑念を抱かずに(キリスト教が出現するまでは)そのような行為をおこなう人間は超人間的な存在に相違ないという観念を容易に黙認する状態にあった」/11-p118

(iyo )まあ平たく言えば、それまでの戦国時代(ペロポネソス戦争以降)があまりにもひどかったために、平和の世界が達成されてみんなが限りない感謝の念を持ったということでしょう。

ところが、このような状態は長続きせず、
「皇帝崇拝の生命を保っていた自発的な感情は、二世紀から三世紀への移り目のローマ帝国の最初の崩潰にあって姿を消した。」/11-p120

その後の皇帝たちの努力も空しく、発展したのはキリスト教でした。結論として、
「カイサル崇拝は、印象的なものであるかもしれないが、平穏無事な時にだけ通用する崇拝であって、嵐を乗り切る力のないことを決定的に証明した」/11-p120

次に、シュメール世界の例があり、この世界の建設者ウル・エングルの後継者ドゥンギの代から現身崇拝が行われましたが、それは短命で無事平穏な時代にだけだったようです。
その後に現れたバビロニアのハンムラビ王は、「人間に化身した神として統治するのではなく、超越的な神に仕える僕として支配する道を選んだ。」/11-p123 ・・・・ということで、人間権力者の神格化は例外であって、通則ではなかったようです。
ほかに、アンデス文明、エジプトなどについても簡単に書かれています。

中国でも、「彼は単に『天子』であって、彼自身が真の神ではなかった。」/11-p128
「自ら神と称するのではなくて、神の名を受けた者として神聖な権威を揮った」/11-p128
漢の劉邦後の皇帝たちは、「次第にプロレタリアートの間で信望が高まっていった儒学者の道徳的権威に基づくという実質的利益のある地位を甘んじて受け入れた」/11-p129  ・・・・とのこと。

では日本は・・・・「日本の世界国家を樹立した三人の偉大な軍国主義者のうち二人が神として崇拝された」/11-p129
(iyo )二人というのは、秀吉と家康とのことですが、秀吉のほうはその後の長い徳川時代に抑えられて影をひそめてしまったとのこと。われわれ日本人からすると、神わざを連発したのは寧ろ信長さんですが、彼は比較的早死にしてしまい、帝国全体の支配者にはなれなかったとのこと。
(iyo )・・・・トインビーさんの評価では、この極東文明の日本分枝は例外と見られています。また、私のような実際の日本の住人としては、秀吉さんも家康さんも、生存時から神様扱いされていたわけではなかったという認識ですが!

ここでひとまずの結論として、
「以上の概観によって、政治的権力者がその政治権力によって上から下へ広める崇拝は、初めから無力なものであるということが、十分証明されたと思う。そのような崇拝は、本質が政治的なものであって、単に形が宗教的であるにすぎない場合に於てすら、また、真実で自発的な民衆の感情に合致する場合に於てすら、嵐を切り抜けて生き残る力を殆ど持っていないことを示すようである。皇帝崇拝はやがて、まったく廃されるか、或いは、神の化身を装っただけの皇帝とは違う、より高次の神の保護のもとに置くことによって支えられることが多い。」/11-p132

・・・・で、この話は終わりかというと、さらに・・・・
「次に以上とは異なり、政治的権力者が、単に宗教的外観を装った政治的制度ではなしに、真に宗教的な性格をもった崇拝を強制しようとする場合がある。そして、この分野に於てもやはり、その試みが成功した例を幾つか挙げることができる。しかし、そのような場合に於ける成功は、そのようにして強制される宗教が既成の宗教であること、少なくとも、その政治的後援者の支配下にある民衆のなかの少数派の間に行われている宗教であるということを条件にしているように思われる。しかも、この条件が満たされ、成功がかち得られる場合でも、支払わねばならない代価が途方もなく高いものになる。」/11-p132

最初に書かれているのは、ローマ帝国が進出してくる直前のユダヤで、もともとセレウコス朝シリアから迫害を受けていたユダヤ人が、戦って自立を勝ち取り、ハスモン朝を成立させたのですが、自分たちが自由になると今度は・・・・
「彼らは、たちまち迫害者に変わった。彼らは、最初は自衛のため、ユダヤ教を滅亡から救うために抜いた剣を、今度は・・・・(中略)・・・・隣接の非ユダヤ系民族に強制するという、新たな、邪悪な用途に向けた。」/11-p133

・・・・その結果、「得られたユダヤ教の勢力範囲の拡張は微々たるものであった。ユダヤ教は迫害によってごくわずかのその領域を拡大した代わりに、その精神的将来をすっかりふいにしてしまった。」/11-p133

さらにイエス様をも受け入れずにキリスト教を追い出してしまいました。
「ユダヤ教の歴史の最大の皮肉は、アレクサンドロス・ヤンナイオスがユダヤ教のために武力によって獲得した新しい土地が、それから百年経たないうちに、それまでのユダヤ民族の宗教的体験全体の完成を使命とするガリラヤのユダヤ人預言者を生んだことであり、そしてこの霊感を受けた、強制的に改宗させられたガリラヤの異邦人の子孫が、それから、当時のユダヤのユダヤ民族の指導者に排斥され、処刑されたことであった。ユダヤ教はこのように、ユダヤ教に提供された、ガリラヤの継子の説いた福音に心を開くことによってキリスト教に発展する明白な運命を実現する機会を故意に拒んだために、その精神的過去を無意味にしたのみならず、物質的未来まで失った。イエスを待望のメシアと認めることを拒否することによって・・・・」/11-p134
(iyo )ヤンナイオス(? - 紀元前76):イスラエルを統治したハスモン朝の王(在位:紀元前103-76)

このあとはローマ帝国に滅ぼされてしまいます。
「そして、その破局からヨハナン・ベン・ザッカイの知恵によってかろうじて救われて、単なる化石として生き残ったに過ぎない」/11-p134
当時、ゼロト党とか熱心党とかいった人たちが、ローマに対して武力で立ち向かおうとするとき、穏健派として交渉したのがこのひとでした。

次にはササン朝におけるゾロアスター教の例がありますが、話が長くなるので結論だけ・・・・
「物語の終わりには、ササーン朝の政治権力に依存して進出をはかるという誤った立場に誘いこまれた宗教は、その罰として化石の状態に陥り、故国を追われてインド西海岸の異質的な環境のなかで、単に異邦人の間の「ディアスポラ」として、生ける屍の状態で生きながらえねばならなかった。」/11-p138
(iyo )この生き長らえた人々はパルシー教徒と呼ばれています。「パルシー」というのは「ペルシャ」の訛りだとか。

続けてキリスト教の現在について・・・・「世俗的権力を利用して宗教的帰順を強制しようとする企てに伴ないがちな結果を眺めてきたこの概観を終わるに当たって、現代西欧世界の境界地図に目を向け、現在のカトリック派の勢力範囲とプロテスタントの勢力範囲との境界線が、どの程度まで、中世キリスト教共和国の「後継国家」である各地方国家の武力もしくは外交政策によって決定されたのか、ということを調べてみることにしよう。」/11-p149

(iyo )・・・個人的に思うに、この方面でのキリスト教は、無茶苦茶なことをやって来ました。この文章の見出し文句自体もそれで生まれてきました・・・・カノッサの屈辱、宗教改革、宗教戦争、南北アメリカでの原住民の虐殺などを含む海外進出、人種差別・・・・これでも宗教かと思うほど・・・・宗教も政治も軍事も区別がつかず、仲良しこよしになりました!
参照・・・・ローマ教皇制の発展と没落 

「わが西欧キリスト教が・・・カトリックとプロテスタントの両方とも・・・・政治権力の保護に依存し、したがって「国家理由」に追従するようになった罰として被った被害の大きさを測ることができる。」/11-p150
その一例として日本の場合、
日本へのイエズス会伝導士による活動も、スペイン国王の恐ろしい政治的野望の宗教的手段であるとのことで、日本の世界国家の支配者によって根こぎにされた。
・・・・しかしながら、これは、本国のキリスト教にもたらした精神的不毛化に較べれば、取るに足らない損失・・・・とのこと。

「ルイ十四世の野蛮なやり方は、プロテスタンティズムをフランスの精神的土壌から根こぎにしたが、それは懐疑主義という代わりの作物のために土地を明けたにすぎなかった。・・・・(中略)・・・・イギリスに於ても、1660年の王政復古とともに、内乱の炎を煽り立てた戦闘的な狂信の反動として、同じ懐疑の風潮が始まり、1688年の名誉革命後は、もはや動かぬ趨勢になった。要するに、宗教との政治との間の汚い勢力結婚の結果は、宗教自体を忌避されるものにしたことであって、・・・・(中略)・・・・宗教は今や禍をもたらす反社会的な狂気・・・・冷酷無情に世俗的権力者の剣の力を借り、提供された軍事的奉仕に対し、自分の雇い人の政治家に平気で宗教的代価を与えるエリニュス(復讐の女神)に見えた。」/11-p152

これに対する防御姿勢として、「新たな啓蒙思想、宗教そのものを嘲笑の対象として取扱う思想傾向が出現した」2-p213 
そして、「どうしてか、私には分からないが、キリスト教は研究の対象にすらならないものであり、今やついに虚構であることが判明したという考えが、多くの人々によって当然のこととして受け入れられるようになってきた。そこで彼らは、キリスト教を、まるで以上の見解がすべて読者の一致した意見であるかのように、また、長い間この世の楽しみを妨げられてきたことに対する言わば腹いせとして、嘲笑と愚弄の主な対象にする以外に何も残されていないように取扱う」/11-p153(・・・・これは、ジョセフ・バトラーの著書からの引用)

しかし、「それは狂信を根絶やししたけれども、その代償として真の信仰の火を消してしまった。そして、この心的態度が十七世紀から二十世紀まで続いているのである。」/11-p152
この心的態度は、「西欧の社会体の精神的健康はもとより、物的存在までおびやかす最大の危険であること、熱をこめて論じられ、やかましく宣伝されるわれわれの政治的ならびに経済的病弊のどれよりも、はるかに致命的な危険であることが認識されつつある。」2-p213

このあらたに認識された病気・・・・信仰の火まで消されてしまった状態・・・・をもどすのはとても難しいもので、「われわれの先祖の、13代目ならびに14代目の子孫に当たる今日の我々に対して、(いまだに)徹底的に祟っているのである。」/11-p154

(iyo )・・・・この辺になると、自分でも感覚的にしっくりと理解できません・・・・自分自身がそのような歴史の中に育っていない日本人だからでしょうか。

因みに、ここでキリスト教諸派の状態が比較されています。
「現存する西方キリスト教の幾つかの形態を見渡し、その生活力(縮刷版では生気)を比較してみると、それが、これらの宗派のおのおのが過去四世紀のうちに世俗的権力の支配に屈服した度合いに反比例することがわかる。」/11-p154
順位付けすると、
一位 カトリック
   「一位は疑いもなくカトリック派である」/11-p154
   「唯一の最高の教会権威の統率のもとに、単一の全世界的組織に統一されている。」
二位 プロテスタントの「自由教会」
   世俗的政府の支配から離脱している。
三位 プロテスタントの「国教会」
   今なお地方国家の政治体に縛り付けられている。

「宗教は世俗的権力の後援を求め、もしくはそれに屈服することによって、徳をするよりも損をする方がずっと多い。」/11-p155 との判定。

ところで、ここで一つの大きな例外について書かれています。それはイスラム教のことで、
「イスラム教は、これまでに調べてきたどの宗教よりも早い時期に、また見たところいっそう決定的なやりかたで政治と妥協したにもかかわらず、滅亡してゆくシリア社会の世界教会になることに成功した」2-p215

ムハンマド自身が、その生涯を見ると、武力に訴えたりしているはず。テレビのニュースなど見ても、イスラム教徒はとても戦闘好きな人たちに見えます。

実は、従来のキリスト教世界では、「イスラム教の弘布における実力行使の程度を過大視する傾向」(2-p216)があったそうです。
「預言者ムハンマッドの後継者たちが要求した新しい宗教への帰順のしるしは、ごくわずかな、対して苦にならない外面的な儀式の履行に限定されていた。しかもこの程度の要求でさえ、イスラムの発祥地であるアラビアの無主地帯の異教的な未開民族の範囲を越えて試みられたことはなかった。」2-p216

例えば、「イスラムか死か」あるいは「コーランか剣か」・・・・たしか、中学校の頃に教わったことですが。
これは、実際には「イスラムか付加税か」が正しいようで、オカネ払えばオッケーだそうです。
ウマイヤ朝の時代になると、支配者側も宗教に熱心な方は少なかったらしく、オカネ払ってもらったほうが却ってうれしかったような!
「イスラム教の普及はのろのろしていたが、確実であった」2-p217 ・・・・大量改宗が始まったのはようやく9世紀になってからとのこと。

以上、結論として下記のように書かれています。、
「世俗的権力が、すでに一部の人間の間に行われている宗教を、被支配者に強制的に押しつけることにある程度の成功をおさめるということは、決してありえないことではないが、そのような政治的支持を受けたために支払わなければならない代価は、結局において、政治的に庇護される宗教に直接もたらされるどんな利益よりも高くつく」2-p218

このあとに、宗教ではなく哲学の場合ではどうか、自分の考えついた空想宗教ではどうかなどがありますが、省略します。
・・・・哲学の場合は成功例を見出すことは困難で、失敗した例が二つ挙げられています。参考までに、
1.ローマ帝国でユリアヌス帝が新プラトン主義を弘めようとした。
2.マウリヤ朝のアショーカ王が、ヒーナヤーナ仏教を公認哲学にしようとした。

さらにおまけのような結論として、「被支配者の大多数、あるいは、少なくとももっとも活発な分子の支持する宗教を採用した支配者は、・・・・一般に成功している。」2-p225・・・・とのこと。
「国の宗教が王の宗教となる」を実践した場合には成功するというのです。
代表的な例として、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝(キリスト教の受容)と、漢の武帝(儒教の受容)が挙げられています。

コンスタンティヌス大帝の場合は、キリスト教を公認した皇帝として学校の教科書にも出てきますが、それ以前は自分でもローマ帝国の神を信奉していたようです(ソール・インウィクトス)
啓示をうけて改宗したような面白い(?)話が書かれています。
「親譲りの信仰を捧げている神の地上に於ける表象である太陽の面に、光の十字架が現れるのを見た。コンスタンティヌスにとってそれは、彼の崇拝する神とキリスト教徒の神とが同一であることを示す啓示以外の何を意味しえたであろうか。『あなたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう』であった。彼の父の一神教の秘密が明らかにされたのである。二年前に、この異教徒はトリールでアポロンを・・・・すなわち、ソールを・・・・『救済をもたらす神』として賛美した。それは、その賛美演説をおこなった際、彼が夢にも思わなかった意味に於いて正しかった。・・・・『ソール・インウィクトス』・・・・不敗の太陽。勝利を得たキリストを表わすのに、これほどふさわしい呼び方があろうか」
/11-p184・・・・NHベインズという歴史家の著作からの引用のようです。

*見出しの「支配者が国の宗教を決定する」は、「歴史の研究」の完訳版には「国の属するものに宗教も属するというのは事実か」という見出しがついています。この訳では意味が分かりにくいので 縮刷版のほうを採用しました。
 (「文明の解体」/・・・・/「混淆意識」/「宗教に於けるシンクレティズム」にある本文の補論として /11-p115)

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