文明と宗教・・・本命はどっち?
1つの文明が誕生して消滅し、次の子文明が発生する間には、宗教が起こって2つの文明の仲立ちをしているように見える例があります(全てではない)
たとえば、ギリシャ・ローマ文明(ヘレニック文明)が滅んで、現代の西欧社会のもとになる文明(西欧文明)が出来上がりますが、その仲立ちをしたように見えるのが、キリスト教でした。
参照:子文明成立の過程
トインビーさんもこの現象を見て、はじめのうち、宗教は新しい文明発生のためにあって、蛹のような役割をするものと考えていたようです。
その後、本人自身が考えを変えたことを認めています。
「教会の役割と性質について多年このどちらかと言うと教会を見下した見方で満足していたことを告白しなければならない。」/15-p24
キリスト教の前後にある2つの文明を比較してみると「同じ状態」であるとのこと。
「出現したキリスト教時代以後の西欧社会は、キリスト教以前のヘレニック社会と同じ状態であるということに賛成する」/15-p23
普通、幼虫→蛹→成虫という段階を経る成長の過程では、地を這うものが空を飛ぶようになったりして、明らかな進化がありますが、キリスト教を蛹と見た場合に、その前後の文明には大きな変化は認められないので「同じ状態」というのでしょう。
しかし、キリスト教について調べてみると、キリスト教はモーセ、アブラハム、預言者、イエス様の時代を経過しながら成長しています。
「人間の精神的進歩の道の上に並んでいる、アブラハム、モーセ、預言者、およびキリストという名の記されている里程標はいずれも、世俗的文明の進路の調査者が、道路が破壊されている交通が途絶していると報告する箇所に立っている」2-p510(/15-p298)
・・・・この引用文だけでは分かりにくいので、コメントしますと、世俗文明が破局を迎えるようなときにこそ宗教はワンランク上がっているというのです。
宗教は成長している!
アブラハムの時代は、まだ宗教とは言えない段階かも知れませんが、モーセ、預言者たちを経てユダヤ教、キリスト教へと発展してきています。
「そして経験的な証拠は、人間の宗教の歴史に於ける高点と、人間の世俗の歴史に於ける低点のこの一致は、人間の現世の生活の『法則』の一つであるかもしれないということを信じさせる理由をわれわれに与える。」/15-p298
(iyo )霊のものと肉のものは相反する・・・・ともよく言われますね。
ついでに縮刷版のほうの同じ場所を挙げますと・・・・
「史実の示すところによって、われわれは、この人間の精神的歴史の上昇点と世俗的歴史の下降点の一致が、人間の地上の生活を支配する法則の一つであることを確信することができた。
そうだとすれば、世俗的歴史の上昇点は精神的歴史の下降点と一致するはずであり、したがって、世俗社会の衰微にともなう宗教的偉業は、精神的進歩であると同時に精神的回復でもあるはずである」2-p510
アブラハムの場合
シュメル・アッカド帝国滅亡の精神的伴奏(/15-p298)
ヘブライの伝説では、うぬぼれた人間が神に反抗してバベルの塔を建てた後 (2-p511)
アブラハムは唯一の真の神から啓示と約束を受け、帝都ウルから脱出 (/15-p77)
「この精神的ドラマの開幕が設定された世俗的、歴史的背景は、解体しつつあったシュメル文明の、最後の体現であった『四海帝国』の分裂であった。こうして、キリスト教に於て頂点に達する精神的進歩の第一歩は、世俗文明にとって最大の破局である世界国家の崩壊の・・・・」(/15-p77)
モーセの場合
エジプト「新帝国」の分裂の伴奏 (/15-p298)
荒野で飢え渇えるという精神を強固にする経験に神の選民をさらすことによって、全盛時代のエジプトの饗宴の精神的によくない享楽から彼らを救おうとする行動(/15-p298)
イスラエルとユダの預言者たちの場合
イスラエル民族が荒野を脱け出て、乳と蜜の流れるカナンの地に入った時に陥った精神的後退の時期
イスラエルが南北朝に分裂し、北朝はアッシリアにより滅ぼされ、南朝はバビロン捕囚
イエス様の場合
ヘレニック文明の動乱時代(ローマ帝国による支配)
イスラエルとかわした契約を人類全体に広げるための神自信の介入(/15-p299)
ちなみに、聖書によればその前にはノアもいましたが、その時は・・・・
神様自身が、大洪水によって暴虐で満ちた地上の人間を滅ぼした。
これによって、ノアは新しい天と地を見て再出発した。
さらに・・・・イエス様の次も気になるところです!
「以上四つの機会における精神的光明の出現は、世俗的災厄に伴う現象であったと同時に、精神的暗黒の後に起きた現象であった。・・・・(中略)・・・・
物質的に困難な環境が世俗的大事業の温床になる場合が多いとすれば、それから類推して、精神的に困難な環境は宗教的努力を促す刺激になるはずである。
精神的に困難な環境というのは、物質的繁栄のために魂の願望が窒息させられている状態である」2-p510
「宗教の歴史は文明の歴史が多様であり、反復的であるのに対して、一様であり、前進的であるように思われる」/15-p80
「宗教という戦車の運動がその上昇に於て継続的であり、その方向に於て不変であるならば、文明の興亡の循環的、回帰的運動は対象的であるだけでなく、従属的である。」/15-p113
そして、キリスト教とその他の高等宗教の間には、同時代の文明の間に見られるよりも緊密な親近性が認められ、親近性はキリスト教と大乗仏教との間に特に顕著とのこと。
その後で各高等宗教間の相違についても触れていますが、結論としては、
「これら四つの高等宗教は、一つのテーマの四つの変奏曲であって、これらの天来の妙なる音楽の構成部分の四つ全部が同時に、しかも同じ明瞭さで人間の耳に聞こえたとすれば、それを聞いた幸せ者は、不協和音ではなく調和の音楽を聞いただろう。」としています。/15-p84
それ以前の段階で、著者は、教会は文明の癌であるとの観点からの調査もしていました。
実際、世界国家の段階では、支配的少数者の作った制度の多くは、自分たちの役に立つよりも、結果的に教会の役に立ったものが遥かに多いわけですから、作った側としては横取りされた気分ですね!
参照:「世界国家は誰の為に」
いずれにしても教会に対して文明が主であるとの考えからでは、
「この線に沿うわれわれの作業が実を結ばないことが判明した」ので、「我々の観点を逆転させて、どのような結果が生まれるか試してみよう。」(/15-p69)
「すなわち、教会が主役であるかもしれないという可能性、また逆に、文明の歴史は、それ自身の運命の観点からではなく、宗教の歴史に対する影響という観点から、考察し解釈することができるかもしれない」(/15-p69)
・・・・というわけで、調査の結果、観点を逆転させています。
「キリスト教は、引き続く世俗の災厄を単に乗切っただけでなく、それから累積的霊感を汲み取った精神的前進の不断の上昇運動の頂点であると見られよう。この重大な歴史的実例から判断すると、精神的進歩に都合のよい環境と、世俗的進歩に都合のよい環境は、違っているだけでなく、相反しているのである。・・・・(中略)・・・・それ故、世俗的繁栄の時代に、人間の魂が精神の呼び掛けに耳をかさず、世俗の災厄によって現世の空しさを痛感し、この災厄がもたらす悩みや悲しみで心が弱くなった時に、それまで無視していた静かな細い声のささやきに耳を傾けるのは驚くにあたらない。」/15-p78 (静かな細い声・・・・列王記19章12節からの引用)
「一つの文明の没落とその後継文明の出現との間に介入して、世俗生活を中断する空白期に宗教の歴史で対応するものは、生命の鼓動に於ける連続性の破壊もしくは停止ではなくて、強烈な精神的照明の閃きと熱烈な精神活動の爆発であると期待できるかもしれない。」/15-p79
では、「文明が宗教の侍女であるならば、そしてヘレニック文明はそれが最後に崩壊する前にキリスト教を生み出すことによってそのよき侍女の役割を果たしたとするならば、」(/15-p113)・・・・その子にあたる西欧文明はどんな役割をもっているのか?・・・という疑問が湧いてきます。
キリスト教の前後にあった、ヘレニック文明と西欧文明は「同じ状態」とのことですが、全然進化がないわけでは無いでしょう。
今では世界中に拡がった西欧文明は、まだ現在進行中の状態なので将来のことはわかりません。今後何らかの価値ある結果を結ぶかもしれませんが、トインビーさんのこの時点での評価はとても低いものでした。
「当惑させられるほど哀れなもの」/15-p113
成長しないどころか「精神的退歩」とさえ言っています!
「二十世紀の世俗化した西欧世界に於て、精神的退歩の徴候はまがう方なく明らかであった。ぶり返したレビアタン崇拝はすべての近代人がある程度の忠誠を献げた宗教であった。そしてヘレニック世界がまだ邪悪であった時代、それが苦難の炉で地方主義の罪からまだ浄められていなかった時代の部族宗教の近代西欧に於けるこのルネサンスは、もちろん、全くの偶像崇拝である。」/15-p114 (ここでのルネサンスは後戻りという意味でしょう)
「近代西欧人のもう一つの宗教であった共産主義は、キリスト教の聖書の一ページから取られているという美点を持っていたが、それは引き裂かれ、誤読されたページであったために無益なページであった。そしてキリスト教の聖書の別のページから取られた民主主義も引き裂かれており、それは多分誤読されなかったが、キリスト教の文脈から切り離されて世俗的になったために確かに意味を半減した。」/15-p114
では、西欧世界におけるキリスト教は・・・・
「17世紀の最後の20~30年は西欧でキリスト教の後退が始まった時期だった。この退潮は私たちの時代になってからも続き、それが食い止められる兆しが見えてきたのは、第二次世界大戦が終わってからのことである。
しかしこのようにヨーロッパ人の心に対するキリスト教の勢力が弱まったことは、必然的にその心を非キリスト教的な信仰の対象に向けることになった。これは・・・・当然起こるべきことであった。」
参照:「国家主義と世界主義」
ローマ帝国という世界国家の成立によって、それまで細かく分かれていた単位が一つに統合され、宗教面においてもキリスト教が国教となりました。より大きな単位で動こうとしていたのに、西欧文明になって、逆に分裂してしまいました。
そしてキリスト教は後退し、代りに共産主義、ナチス、ファシズムなど、国を超えることのできない低次宗教があらわれたことになります。これは歴史の逆戻りでしょう。
それでもトインビーさんは、西欧文明の役割として、
「キリスト教と現存する三つの姉妹宗教に、これらの宗教の究極の価値と信仰が一つのものであることを悟らせるとともに、人間の集団的自己崇拝という、とりわけたちの悪い形を取って現れる偶像崇拝再発の挑戦に直面させることによって、文字通り全世界的な規模の出会いの場を提供すること」を挙げています。2-p473
(三つの姉妹宗教:イスラム教、ヒンズー教、仏教)
実際、どこかの宗教団体(?)では、そんな動きをしているとか!
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